肥沃な三日月の古代アナトリア
肥沃な三日月の古代アナトリア
みなさま、こんにちは!
アナトリアとういうのは、古くからアジアとヨーロッパの架け橋となっています。 海や川に囲まれ、貿易に最適な位置にあるため、ここで諸文明が確立されています。 このようにして、アナトリア文の化が生まれました。
作家ジャレド・ダイアモンドの有名な本『銃・病原菌・鉄』で述べられているように、アナトリアが位置する地域は「肥沃な三日月地帯」と呼ばれています。
1000年頃にトルコ人がこの地域に移住し始めてからは、アナトリア地方の独特な文化を身に纏い、数百年を通じてトルコ文化を現在の形に作り変えました。
今回は、トルコ人が恵まれたこの肥沃な土地と、当地で過去に存在した文明について説明します。
人類学者は、世界中に広がる人類はもともとこの地域で進化したと考えています。ここから、今日の人類の基盤でもある古代アナトリア文明を見てみましょう。
偉大な古代文明の発祥地であるアナトリアよりも古い、新石器時代にさかのぼる場所があります。世界で最も古い集落である「ギョベクリ・テペ」と「チャタル・ヒュユク」と言います。まずは、それらから説明していきます。
時代のゼロポイント:ギョベクリ・テペ
南東アナトリア地方に位置するシャンルウルファは、西と東を結ぶ古代の通商路として重要な町でした。12000年前に建てられたギョベクリ・テペも、ここに宿ります。
実は、2018年にてユネスコの世界文化遺産のリストに登録された、新石器時代の遺跡です。
毎年何百人もの観光客が訪れる人類の宗教と文化の原点となったゼロ・ポイント。ギョベクリ・テペは直訳すると「太鼓腹の丘」と言うが、「エデンの神殿」として呼ばれることもあります。
ギョベクリ・テペでは1963年に発見され、1994年以降に発掘が始まることにより、人類にとって最も重要な発掘物が見つかりました。それは、世界最古の神殿の遺跡です!
この発見の重要さの理由は、この神殿が農耕が始まる前につくられたと思われていること。いわゆる、人類が定住するのは農耕の影響だけではなく、宗教の影響もあるという理論が出てきた原因ですね。
ギョベクリ・テペの構造は、イギリスのストーンヘンジとエジプトのピラミッドの7500年前、そして日本の縄文時代に至る。この時期は、アナトリアの人々がまだ、日本の縄文時代の人々のように、狩猟採集民として生活を送っていました。
一方で、ギョベクリ・テペを作った人々の信仰は強く、宗教的儀式のために神殿を構築しました。遊牧民の彼らがつくった神殿には、高度な建築技術が用いられているので、考古学者でも驚くたくさんの謎が残されています。
直径8~30メートルの多数の円形に囲まれた、巨大なT字型の石柱で有名になりました。石柱には抽象的なシンボルや動物の絵が刻まれています。それらの意味の全てが解読されていないため、神秘的な雰囲気が感じられます。
シャンルウルファに行く際は、ギョベクリ・テペにも行って、その雰囲気を感じてみてください。
村から都市へ:チャタル・ヒュユク
中央アナトリア地方のコンヤにあるチャタル・ヒュユクは、約9000年の歴史を有する集落跡です。ここも、2012年にユネスコの世界文化遺産リストに入りました。
チャタルヒュクの特徴の一つは、推定8000人が居住していた、新石器時代から残る最古の居住地であること。
さらに当エリアでは、農業の跡地が見つかり、アナトリア地方において農業が始められた最初の集落とも言われています。
しかし、チャタル・ヒュユクが他の古代の集落から異なる大事な特徴は、集落を通過してて都市化の段階に入ったことです。
1958年に発見されてから、25年間現在に至る発掘調査が行われています。発掘で分かった1点は、20メートルを超える18層の建物跡が重なっていることです。
場所の名前の一部である「ヒュユク(HÖYÜK)」は、「塚」または「何層にも重なる遺跡の塚」を意味します。ある家に住む人々が亡くなると、その家は土で覆われ、上に新しい家が建てられ、塚が形成されたのは「チャタル・ヒュユク」の名前の由来となっています。
ここには、歴史上において定住生活の始まり、世界最古の風景画、母なる女神(座った女性の像)の崇拝など、人類の歴史をつくった大発見がありました。
現在、ここで発掘された出土品は、アンカラにあるアナトリア文明博物館で展示されています。
アナトリアには、様々な古代集落がありますが、ゴベキル・テペとチャタル・ヒュユクは一番有名ですね。では、古代文明も見てみましょう!
アナトリアの太陽:ヒッタイト
ヒッタイトは、紀元前2000年のアナトリア地方で、ヒッタイト王国といわれる帝国を設立したと呼ばれる古代の人々です。アナトリアのほぼすべてを統治し、現在、トルコのチョルム市に位置する場所に、首都「ハットゥシャ」をつくりました。
彼らはコーカサスからアナトリアにやって来て、狩猟採集以外に、耕作地を広げるために農業にも従事していました。
ヒッタイトにとって生活の上で農業はとても重要であり、そのため、ヒッタイトの神への信仰も自然に基づくものでした。
ヒッタイト帝国には注意すべきいくつかの特徴があります。
一つの特徴は、ヒッタイト王が生きている時期中、彼の正妃に付けられていた称号の「タワナアンナ」のことです。この称号は、正妃が亡くなったら、引継ぎ、后妃または新しい正妃に与えられました。王が亡くなった場合は、皇太后として即位し、タワナアンナが生きているあいだにタワナアンナ王位の交代はなく、死ぬまでの身分として保障されたそうです。この称号が付けられた人は、王と平等の権利をもつとみなされていました。
もう一つの特徴は、ヒッタイト人が楔形文字だけではなく、象形文字も使っていたことです。
神々に報告するために、ヒッタイト王によって書かれていた年代記もありました。これらに帝国と関係するすべての事柄(戦争など)が正確に記録されていました。
さらに、最初の平和条約も、実は、エジプト・ヒッタイト間で結ばれました。
当時の芸術においては、高度に発達した文明であったと言われています。ヒッタイトから残るライオン、雄牛などの強い動物、戦争での戦い、大宴会、日常生活や王族を神々と一緒に描いたリリーフ(浮彫)や像が見られます。
これらのうち、トルコのハットゥシャ都城遺跡にある「ライオン門」と「王の門」という主要門が最も知られている例ですね。1986年にユネスコの世界文化遺産に登録されたハットゥシャですが、トルコ旅行というと、絶対訪問すべき観光地のひとつだと言えます。
豆知識です★ヒッタイトにとって聖なるシンボルである「ヒッタイトの太陽」と呼ばれるアイコンは現在も有名です。どこでも見かけるトルコの食品ブランド「ETI(エティ)」のロゴに使用されています。
ミダスの耳とフリュギア
フリュギア王国は、紀元前1200年に、現在トルコのキュタヒヤ、エスキシェヒル、アフヨン市に設立されました。
地理的な位置により、ローマとギリシャの文化の影響を強く受けていました。昔話や物語で出てく4る「王様の耳はロバの耳」の物語のミダスはフリュギアの王でした。ミダス王が支配した時期は、フリュギア王国が最盛期を迎えました。
フリュギア人地母神信仰でした。その中で「母」を意味する「マタル」といわれる太母神が有名です。マタルは、フリュギアの宗教について最初に得られた情報として重要です。
また、フリュギア人は鉱物処理の技術を進歩させ、鉱山から家を建てるための道具を作りました。そして、敵から身を守るために、高い所に城を建てました。
建物の外壁をペンキとレリーフで飾るといった技術も持っていたのです。
誰もが好きなお金とリュディア
リュディアはアナトリアの西部に設立された王国で、 時代の経過とともに、アナトリアの中心ま拡大しました。最初はフリュギアの支配下でしたが、フリュギアの崩壊後に独立しました。
リュディア人は、現在もよく知られているゼウス、アポロ、アルテミスなどのギリシャの神々を崇拝していました。
リディア王のダレイオス1世によって、「王の道」とういう有名な交易路は建設され、ペルシア王によって改善されました。道はトルコのエフェソスから始まり、イラクのモースルまで伸びています。これにより、東西貿易と共に経済・科学・芸術・文化の交流が発展されました。
「エレクトロン貨」という世界最古の硬貨も、実はリディアのものです!彼らは、紀元前700年により、貿易の目的で初めてお金を利用しましたね。
物々交換で貿易が行われていた時代に、金や銀を加工して硬貨が作られてから、貿易の流れと世界が変わりました。最も知られるリディア王の「クロイソス」は、非常に裕福であることで有名でした。
この歴史から、今でも、日本語の「大金持ちの」の表現方法として、トルコ語と英語で「rich as Croesus」という、「クロイソスほどお金持ち」の意味の慣用句が使われています。
各文明の家であったトロイ遺跡
トロイ戦争と世界中で有名「トロイの木馬」の舞台であった、現在はチャナッカレと呼ばれるトルコの町。アナトリア地方・エーゲ地方・バルカン地方が交差する場所として地理的に重要でした。
地震で何かいも倒れて再建されました。この原因により、1871年から行われた発掘調査で、町が9つの層で形成されていることが分かりました。
発掘中はさらに、円形劇場、公衆浴場などが発見され、町には高度な下水道システムがあったことが明らかになりました。
1998年にユネスコの世界文化遺産リストに登録されたトロイ遺跡は、さまざまな文明に触れてきました。諸文化が融合したそれぞれ9つの層を、それぞれの時代や歴史が作り上げました。
トロイは、元々ヒッタイト人が暮らしていたと発見されましたが、年代順に、ペルシア帝国、古代マケドニア王国、セレウコス朝、ペルガモン王国とローマ帝国の支配下にも入りました。合計19つの文明から残る遺物があるそうです。
古代ギリシャののミケーネと古代ギリシャの間で紀元前500年に起こった、約10年間続けてきたトロイ戦争は、木馬作戦でギリシャの勝ちとなりました。本当は兵の隠れ場所であった木馬がトロイに贈られ、ギリシャの兵の隙間からの攻撃で、トロイは一夜で陥落した作戦でした。
これらのことは、最古期の古代ギリシア詩作品である、ホメロスの『イーリアス』で語られました。
3000年以上の歴史を語る場所なので、実際に足を運んで、自分の目で見て体験すべきだと思います!
アナトリアにはまた多くの古代文明と王国がありますが、歴史的に有名である古代文明の一部について簡単に紹介しました。お読み頂きありがとうございます。是非、トルコへ、古代文明に触れる旅をしてみてください。
トゥーチェ・カラポラット