神話が豊富な哲学者の町「ミレトス遺跡」
神話が豊富な哲学者の町「ミレトス遺跡」
古代遺跡には奇妙な美しさがあるでしょう。
自然災害を受けても現在まで残る古代文明の証でも言えますね。
ミレトスは科学・芸術・哲学の重要とした古代都市です。
更に、ミレトス学派が古代ギリシャにおける医療の発展への影響が大きいと言えます。
今回の記事では、トルコ西部にあるミレトス遺跡の歴史と神話をご紹介します。
ミレトス遺跡の一般情報
ミレトス遺跡は、トルコ西部のエーゲ海地方アイドゥン県のディディム町にあります。発掘調査によると、ミレトスに居住されていたのは紀元前3500年代にさかのぼります。
最初は植民市として建設されましたが、海上貿易が発展してきたミレトスは、地中海地方と黒海地方において90ほどの移民団を結成しました。
エーゲ海に面するこの重要な遺跡は、アルカイック期にて港町として栄え、科学的・哲学敵に優れていました。
ミレトスの名前の由来と建設への流れ
ミレトスの名前はどこから来ているかを伝える神話がいくつかあります。
最も人気な神話によると、ミレトスはクレタ島 の姫とアポロンの子供3人の一人でした。
自分の父の怒りを恐れていた姫は、ミレトスを森に隠しました。アポロも、彼を見守りますよう、雌狼に命令しました。
雌狼に育てられたミレトスはクレタを出て、アナトリアまでやってきます。その後、メンデレス川に住んでいる女性の人と結婚し、ミレトスをつくりました。
もう一つの伝説では、ミレトスが建設された後、アテネのコドロス王の子であるネレウスはミレトスにやってきて、ここを再建設しました。住民の男性を殺して、彼らの妻と結婚したなど、様々なお話があります。
ミレトス古代都市の歴史
ミレトスは元々小アジアに作られた12のイオニア都市国家の1つでした。紀元前500年の前にてアナトリア地方での農産物貿易、そしてイタリアへのウールの輸出で人気な貿易中心地でした。
紀元前494年に起こったペルシア戦争で陥落したと思われます。
ヘレニズム時代には「獅子の港」や劇所の周囲が造られました。次いでローマ時代がやってくると、更に公衆浴場、港の入口に立つ古い獅子の彫刻、競技場、アゴラなど、追加で建築されました。
大メンデレス川メよって運ばれた沖積層の影響により、ミレトスは港町である特徴を失い始めました。6世紀に、哲学が広がり、街は劇所と城だけに限られました。
ビザンティン帝国時代になり、名前は「パラティア」に変わったミレトスは、13世紀にオスマン帝国の支配下となり、「バラット」と呼ばれていました。
ミレトス遺跡の構造
広い地域にあるミレトスの町に入ると、最初に目にするのは、ギリシアとローマ建築様式を代表とする劇所跡。ヘレニズム時代に最大5300人の収容力をもつ劇所はローマ時代に修復され、15000人が座れるようになりました。
大劇場のよく保存されたアーチのある通路は、港へ繋がります。
町には4つの港があります。二つの大理石の獅子間にある「獅子の港」や「アテネの港」が有名。
劇所の向こう側には壮大な国会議事堂 があります。当時、炉の女神ヘスティアと住民のために建てられ、約1500人が入れるようになっていました。
また、その次ぐ近くに、ニンファイオンという、町に水を運ぶための泉があります。高度な水道システムで町中に水が供給されていました。
もう一つの見応えがあるところはファウスティナの浴場。お風呂の冷たい、熱いと温かいの部分、そして更衣室やプールが見やすくなっているハマムでは
ミレトス学派
ミレトス学派は、紀元前6世紀頃に現在のアイドゥンで活躍していたギリシャ哲学最古のことです。タレス、アナクシマンドロス、アナクシメネスというミレトスの三人の哲学者によって確立されました。
タレスと言えば、最初の哲学の思考を生んだ人。3人もミレトスの出身者でした。この学派は、世界の始原「アルケー」を究明する自然哲学を中心としていました。
ミレトス遺跡を訪問するならここも!
1973年に開いた「ミレトス博物館」も見る価値のある、歴史的なところです。同じく、アイドゥン県のディディム町にありますので、簡単に行けます。
ここでは、ミレトス遺跡、プリエネ遺跡、ディディム・アポロン神殿からの遺物が展示されています。綺麗な庭の部分もあり、目の保養になり、ゆっくりと巡ることができます。
エリちゃん~