平和を守った古代都市、アンタルヤ県のペルゲ遺跡
平和を守った古代都市、アンタルヤ県のペルゲ遺跡
トルコの小アジア南部にあるパンフィリア州(現アンタルヤ)の首都として歴史に名を残したペルゲの街。古学と歴史の冒険に出たい人のために存在する場所です。
「全ての人類が住む国」という意味のパンフィリア州のペルゲで、その名前の通り、どの部族でも一緒に平和に暮らしていました。
今回の記事では、見事な建築と高い彫刻技術で有名な古代都市のペルゲ遺跡への冒険にお連れします♪
ペルゲの歴史と一般情報
ペルゲの建設・位置・特徴
ペルゲは、アンタルヤの街の中心部から17km東にある距離です。
アクス川(古代名ケストロス川)沿いに広がる都市です。この川の名前は、川の神であるケストロスに由来します。
現在、ケストロス川へのアクセスは難しいのですが、昔、街に行くにはここから通らなければなりませんでした。聖パウロも訪れたときは、ここを通りました。
ペルゲの人々は、この川の重要性を強調したく、街の中心の記念噴水に、神のケストロスのレリーフを彫んだようです。
ペルゲは、ヒッタイト時代(紀元前1650〜1200年)にも存在したと信じられています。遺った古代文章によると、ヒッタイト人がパンフィリア州を征服し、この地方の南にある地区を「パルハ」と呼んでいました。このパルハはペルゲを示しているかと言われていますが、明確ではありません。
また、ペルゲの起源は紀元前1200年頃のトロイ戦争後に、ペルゲ地区へ移住してきたギリシャの司令官3人に建設されたという説がありますが、それもまだ証明されていないようです。
パンフィリア州のシデやアスペンドスの都市と同様に、ペルゲも貿易活用が多かった港町でした。これにより、贅沢な人生を送っていました。
建築とその細かい装飾、そしてリアルっぽい大理石彫刻で有名なペルゲ。発掘された遺物は現在、アンタルヤ考古学博物館で展示され、よく注目されています。
2009年にユネスコの世界遺産暫定リストに入りましたので、文化観光には安心しておすすめできますね!
誰に支配されていたのか?そのタイムライン
ペルゲ遺跡は、周囲の古代都市と同様に、それぞれの時期において多数の王国、帝国などの支配下にありました。
しかし、紀元後までは大した変化や発展はなかったです。都市が大きく変わり始めたのは、ローマ時代の支配下に入ったからです。
では、どんなタイムラインを持っているのでしょうか?見ていきましょう!
紀元前6世紀
ペルシア帝国の支配下にありました。
紀元前5世紀
デロス同盟はペルシアとの戦争を勝ちました。その結果、ペルゲ、アスペンドスなどの各都市は、この同盟に入りました。
※デロス同盟: ペルシアの来襲に備えて、アテナイを盟主としてエーゲ海周辺の都市国家に結成された同盟です。
紀元前333年
マケドニア王国のアレキサンダー大王は、パンフィリア州に訪れた結果、何も戦争がなく、彼の支配を受けることになりました。
ペルゲは戦わなかった理由としては、当時、防御システム(街を守る壁)は作られていなかったと言われます。このシステムは彼が死亡した後、セレウコス朝(紀元前23年)の支配下に入ってから作られました。
「アポロニウスの円」という数学の方程式をつくった人である、ギリシャの数学者アポロニウスも実はペルゲ生まれです!彼の誕生はこの時期。
紀元前190年・133年
紀元前190年にマグネシアの戦いの後、ペルげはローマ帝国のものとなりましたが、友邦のペルガモン王国に渡されました。王のアッタロス2世は継承者がいなかったため、133年にペルゲをローマ帝国に返しました。
紀元後43年
パンフィリア州は、トルコ大陸の東南に位置するキリキア州と一つになりました。ローマ支配下にあったペルゲは、大きく発展し、非常に繁栄した都市になりました。
劇場、ローマ式浴場、列柱通り、噴水などの建築物はこの時期に造られました。
女神アルテミス信仰の地でしたペルゲでは、3世紀頃からキリスト教を認めるように変わり始めました。
5〜6世紀
ビザンティンの支配下に入ったペルゲは重要性を保ったと言えます。キリスト教の活動に影響がありました。
キリスト教のローマ帝国内への普及した聖パウロの、最初に説教した地はペルゲでした。彼はキプロスから出発し、ペルゲ→アッテリア(現アンタルヤ)→ ペルゲの形で、2回も訪れました。これについては聖書に記載されていました。
7世紀にアラビア人からの来襲により、8世紀からは大都市といった重要性を失ってしまいました。
ペルゲの見所
ペルゲは社会生活が出来ていた、運動活動も多かった都市。そんなペルゲを代表とするスポットのいくつかをご紹介します。
劇場
この劇場は、ギリシャ神話で「酒の神」と言われるディオニュソスのために作られました。舞台の壁にディオニュソスの人生を描いた細かいレリーフが綺麗に飾っています。
古代ギリシャの建築様式とローマ帝国の建築構造が見られるので、独特感があります!
14000の観客席がある大きさで建設されました。1世紀〜3世紀の間に建てられたと思われています。
競技場(スタジアム)
このU型のスタジアムは、アナトリア地方の保存状態の良い古代スタジアムの一つです。
長さは234mで、広さは34m。12000人が収容できます。
3世紀からは、剣闘士や動物の戦いが行われ始め、北側に動物用のケージが造られました。
観客席の下に合計30の部屋があります。これらの部屋は、お店として使われていたらしい。
城門
ペルゲ遺跡にヘレニズム期を代表とする2つの城門と2つの高い塔があります。
そしてローマ時代に建てられたもう1つの城門もあります。
通常、南側の門から入場するので、すぐ目にするのはこの2つの塔となります。
他の歴史的建築物
ペルゲの街に女神アルテミスの神殿もあるというお話があります。
街から15km離れた場所にあるという噂がありますが、現在、その遺物はまだ見つかっていません。
2018年に、プランシアマグナの霊廟が発見されました。彼女は、ペルゲのためにさまざまな社会活動をし、多くの建物の建設を支援したペルゲ街の人。歴史において初の女性の市長でした。
二つの塔の東側にあるアゴラ(広場)には入場門が4つあります。2世紀に建てられました。アゴラは、商店並びと住民にさまざまな商品を提供していた商人がある、列柱に囲まれたイメージでした。今のバザールのようなものですね。
アンタルヤでの遺跡巡りを考えている方は、ぜひペルゲも実際に行ってみてくださいね!
エリちゃん~