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5分で分かるトルコの歴史|古代〜現代(いま)のトルコができるまで

東西文明の十字路として、古くから栄えてきたトルコ。

さまざまな文明や文化が誕生し、近代国家へと発展していきました。

この記事では、そんなトルコの悠久の歴史をお伝えしていきます。

トルコへ足を運ぶ前に、ぜひご覧になってくださいね。

西と東の文化が交わる…トルコってどんな国?

 
黒海とエーゲ海、そして地中海に三方を囲まれる「トルコ共和国」。

東ヨーロッパのバルカン半島トラキア地方と、西アジアのアナトリア半島を領土とする、共和政の国です。

人口は8,400万人で、国土面積は78万平方キロメートルと日本の約2倍にあたります。

首都はアンカラで、国内最大都市はイスタンブール

公用語はトルコ語で、このほかクルド語やアラビア語、ザザキ語など多数の言語が用いられています。

1923年に「トルコ国内に居住し、母語をトルコ語とする人は全てトルコ人である」と定義しました。

人口の99%以上はイスラム教で、少数派ではありますがアルメニア使徒教会やユダヤ教などを信仰する人もいます。

日本とトルコは古くから友好の歴史を紡いでおり、2010年には友好120周年を迎えました。

5分で分かるトルコの歴史|古代〜現代までをざっくり解説

 
5分で分かるトルコの歴史|古代〜現代までをざっくり解説

トルコの歴史は古く、旧石器時代から人類が住み始めていたといわれています。

その後、トルコではさまざまな文明の勃興が繰り返されました。

ここからは、そんなトルコの歴史を、分かりやすく解説していきます。

繰り返される国や民族の興亡…古代〜ローマ帝国時代

トルコのあるアナトリア地方では、紀元前18世紀頃にヒッタイト帝国が誕生し、鉄器文化を築きました。

その後、紀元前9世紀頃にフリュギア王国が建国され、紀元前7世紀頃にはリディア王国へと次々に支配者が変わっていきます。

紀元前6世紀頃にペルシア帝国の支配下に入りますが、紀元前4世紀にはマケドニア王国のアレキサンダー大王がこの地を征服します。

彼の死後にはセレウコス朝シリアが支配し、紀元前188年まで共和政ローマとの戦いが続きましたがこれに敗れ、ローマ帝国の支配する地となりました。

巨大帝国の誕生 …オスマン帝国の建国

 
ローマ帝国時代、現在のトルコ人の祖にあたる遊牧国家、突厥(とっくつ)はまだこの地に進出していませんでした。

一方で、395年になるとローマ帝国は東西に分裂し、東ローマ帝国は現在のイスタンブールにあたるビゼンティンをコンスタンティノープルと改称し首都とします。

少し遅れて582年には突厥も分裂、1038年には西突厥が中心となったセルジューク朝が興りました。

勢力を増すセルジューク朝でしたが、中央アジアから進出してきた西遼との争いなどに敗れ、主力派は滅亡します。

しかし、セルジューク朝の地方政権であったルーム・セルジューク朝は、アナトリア地方でなんとか命を保っていました。

そして1299年、ルーム・セルジューク朝の支配下である小国出身のオスマン1世が台頭し、オスマン帝国を建国したのです。

度重なる戦争…オスマン帝国の弱体化

 
建国以降、オスマン帝国はどんどんと勢力を増していきます。

1346年にオスマン1世の子であるオルハンが、東ローマ帝国の皇帝と同盟を結びバルカン半島に進出。

さらにオルハンの子であるムラト1世の時代になると、東ローマ帝国の重要拠点であったコンスタンティノープルを占領し、アナトリア地方での領土を広げていきます。

その意志は子から子へと受け継がれ、ついには東ローマ帝国を滅ぼしました

最盛期を迎えたオスマン帝国は、東はアゼルバイジャン、北はウクライナ、南はイエメン、西はモロッコにおよぶ大帝国になったのです。

しかし1683年以降は、反オスマン帝国を合言葉にした中央ヨーロッパ諸国連合に大敗北し、弱体化の陰りが見え始めます。

その後も、数々の争いが続き国力は低迷、20世紀はじめ頃には「ヨーロッパの瀕死の病人」と呼ばれるほどになってしまいます。

トルコ革命…トルコ共和国の成立

 
1808年、オスマン帝国は近代的な中央集権国家を目指し、行政や軍事、文化を西欧型へと近づけることを決めました。

しかし、それにより経済のほとんどを西欧に依存することとなったため、1875年に起こった金融恐慌と農作物の不作によって財政は破綻。

再び専制政治へと舵を切ろうとしましたが、西洋式の教育を受けた青年将校らの中には反発するものも多く、彼らによって結成された「統一と進歩委員会」に対抗されます。

その後彼らを中心に、「青年トルコ革命」が起きると、1913年には統一政権が樹立。

統一政権は1914年から始まった第一次世界大戦に同盟国側で参戦しますが、1918年に連合国側に降伏し、国土の大半をフランスやイギリスなどに占領されることになります。

こうした混乱の中で頭角を現したのが、統一派の一員であったムスタファ・ケマルです。

1922年にトルコ大国民議会が決議し、スルタン制が廃位されたことによりオスマン帝国が滅亡しました。その後、共和政を宣言し1923年に「トルコ共和国」を建国されました

政教分離・世俗化を推進…トルコの近代化

 
トルコ共和国は、ほかのイスラム圏の国とは一線を画す国家路線を歩み始めます。

まず、宗教と政治を分離し、世俗主義を断行していきました。

イスラム教を国教とする条文を憲法から削除し、それまでアラビア文字表記だったトルコ語にはアルファベットを当てました。

さらに、一夫多妻制も禁じ、1934年には女性の参政権も実現させています。

現在のトルコの状況は?

 
現在のトルコの状況は?
近代国家として建国されたトルコですが、現在は反西欧、反世俗化の意識も高まりつつあります。

ここからは、現在のトルコの状況について見ていきましょう。

EU加盟への交渉が続く

 
トルコは、イスラム圏の国の中で唯一「NATO(北大西洋条約機構)」に加盟しており、欧米諸国との関係性もとても重視しています。

そのため、ヨーロッパ地域の統合にも早くから強い関心を示していました。

1987年にはEC加盟を申請し、2005年からはEC加盟への交渉が始まっています。

現状では、具体的な進展は見られず、国内でもEU加盟に対する慎重な意見が増えているため議論は今後も続く見込みです。

アヤソフィアの再モスク化が話題

 
2020年6月にエルドアン大統領は、イスタンブールにある博物館「アヤソフィア」をモスクとして使用すると表明しました。

同施設は、東ローマ帝国時代に創建されたキリスト教の本山の1つでしたが、1453年のオスマン帝国征服以降はモスクに転用。

オスマン帝国倒壊後は、政教分離を掲げているため1935年に博物館に変更されました。

モスク化されてからは、キリスト教とイスラム教の文化が融合した場所としてパワースポットとなっており、世界中の人々がお祈りしにきています。

トルコでさまざまな文明・文化の歴史をたどろう

トルコには、古くからさまざまな文明や文化が誕生してきました。

製鉄文化を育んだヒッタイト帝国や古代ローマ帝国、そしてオスマン帝国などの歴史を感じられる遺跡は今もなお数多く残っています。

トルコに足を運んだ際には、こうした悠久の歴史をたどってみてはいかがでしょうか。

トルコ専門旅行サイト『ツアークア』では、トルコの世界遺産をめぐるツアーなどもご用意しております。

トルコへの旅行をお考えの方は、ぜひご相談ください。

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